1 ブルーノ シュレジンガー

  ベルリン、ケルン、ハンブルグ 1876年から1896年


 ワーグナーの指環が完全に上演されたのは、1876年の8月のことである。オペラの標準サイズとかけ
離れたボリュームを持つこの作品は、全曲演奏に15時間を超える場合もある。この4つの作品を上演す
るために、ドイツの片田舎のバイロイトという場所に特別の歌劇場が建設され、聴衆はこの大傑作を体
験するのに、構成する1作につき1日使うので、都合4日間を費やさねばならないのだ。豊かさといった
観点から、この作品は過去に考えられていたオペラの限界というものについて、大幅にその範囲を拡げ
させたと言えるだろう。小説の世界において同じ頃書かれたトルストイの「戦争と平和」が同じ効果を
もたらしたように。
 もし、ワーグナーの指環が、古典音楽の制約を解き放ち、典型的なロマン主義を示すものならば、ま
もなく起こったこと― つまり、1876年11月4日にヨハネス・ブラームスの交響曲第1番の初演―は、全
く違う方向性を示していた。この作品も大変大規模な管弦楽作品であり、19世紀後半の旋律やハーモニ
ーを濃厚に使用しているが、古典主義との適正なバランスのもとに書かれたものである。バランス、つ
まり緻密な動機の発展や、うまく抑制した情熱と、慣れ親しんだ古典様式の保守性との調和がブラーム
スの交響曲ジャンルにおいて最初に完成された特徴なのである。
 その雄大な曲想から、両作品とも、豊かな音の構成から旋律線を引き出し、論理的に構成された分厚
い織物のような芸術作品を形作るのは、名人芸的資質を持った指導者が要求されている。両作品には、
単なる拍子を打つだけではなく、洞察力や想像力を解釈する力が必要とされるのだ。これら19世紀の2
つの傑作が初演された時期の間に、ブルーノ・シュレジンガーは生まれた。彼は。ブラームスやワーグナ
ーの重要な演奏解釈を行っただけでなく、古典を精錬し、恍惚な音色を引き出した20世紀最高の指揮者
となったのである。
 ヨーゼフとヨハンナ(旧姓フェルンバッハ)・シュレジンガーの息子として、彼は1876年9月15日に
生まれた。ベルリン北東部のアレクサンダー広場に程近いメーナー通1番角に住居を構えるユダヤ人の
中流階級の出自であった。彼には3つ年上のレオという兄がおり、また1878年には妹エンマが生まれた。
父は、絹織物商の帳簿係をしており、音楽を大変深く愛していたが、音楽の資質と才能を備えていたのは
母親の方であった。1850年に合唱指揮者であり、教育者であるユリウス・シュテルンによって設立され
たシュテルン音楽院で彼女は学んでいた。ヨハンナ・シュレジンガーは、息子の最初期の行動を、愛情
と悩みが交錯する小さなメモの形で書きとめていた。これらには、息子がナイフを使えるようになって、
楽譜からページを引きちぎって鍵穴に詰め込んでいたというような日常の様子が書かれている。
 しかしブルーノは、幼い頃からその並外れた音楽の才能を見せ始めた。まずヨハンナが、息子の才能
に気がついた。5歳の頃、彼の将来の仕事を暗示させるようなことがあった。彼の母はいつも彼をナショ
ナル・シアター・ガーデンに連れて行った。そこでは、小さな楽団が訪問客を演奏でもてなしていた。
ある日、ブルーノにとってその楽団は興味の中心になった。彼を楽団の前に立たせると、指揮者のあら
ゆる動きをまね始め、そしてそれは決して飽きることなく、演奏が終わるまで続いたのだった。このと
きの集中力は、彼がみせたその他の頑固さとよく似ていると思われる。ヨハンナにとって、彼の興味を
満足させたり、ころころ変わる移り気な性格をコントロールすることは非常に難しかった。彼女が「野
生の子馬」をおとなしくさせるには、彼をピアノで彼に演奏を聴かせることだけが有効だった。そうす
ると、小さな男の子は口をぽかんと開けて聴き入り、魔法をかけられたかのように座っているのだった。
そしてある日彼は尋ねた。「ママ、それはママの指から出てきているの、それとも何かのしかけがある
の?」 すると母は彼をひざの上に座らせ、彼に演奏がどのようにされるかを見せた。ブルーノは、母
の言葉をもらさず聞き、それから実際に鍵盤を叩こうとした」彼は言った。「おかあさんのようにピア
ノが弾けるように教えてよ」そうしてその後、彼は母親から毎日レッスンを受け、目ざましく上達して
いった。
 学校では、彼は利発ではあったが、優等生ではなかった。彼の想像力は、次第に日々の日課の拘束に
抵抗を覚えていたし、「夢想にふけっているときは、違った種類ではあったが後年彼の仕事においても
あったように、平気で今日は鉛筆を忘れ、明日は書き板やノートを忘れた」と、彼の母は書いている。
しかし、読み方を習うや、彼は書物に埋没した。ロビンソン・クルーソーや皮脚絆物語のような文学を
楽しみ、また古代ギリシア神話も、博物館の芸術作品で描写されている古代神話の一場面を理解してい
るかのように、書かれている言葉を深く味わった。
 息子が非凡な能力を持つことに気づいて、ある日ヨハンナは、夫にブルーノが偉大な音楽家になると
思うと話した。
 彼は笑った。「それは母親のひいき目にすぎないよ。僕は子供たちが利発なことは認めてるし、自慢
だし、将来有能で善良な人になるんだったらとても嬉しいよ。でも、そんなところまで想像はつかない
ね」
 「時が解決してくれるわ」彼女は答えた。
 ヨーゼフの彼に対する態度はすぐに変化した。きっかけは内輪の結婚式だった。ブルーノの伯父が少
年に演奏させるよう、プロのピアニストに頼んだとき、彼は肩をすくめ、冷ややかな感じで彼に場所を
譲った。ペダルに足が届かない状態ではあったが、ブルーノは暗譜でメンデルスゾーンの無言歌ホ長調
を演奏した。母の熱烈な解説によるとそれは「魅惑的な」演奏であった。そしてプロのピアニストは、
この子はきっと「偉大な音楽家になる」と予言をし、彼をピアニストで教育者でもあるロバート・ラー
デケのところに連れて行くよう推薦をした。ラーデケは、シュテルン音楽院の院長で、ベルリン宮廷
歌劇場の指揮者(他にも数多くの歌曲の作曲家としても高名)であった。ラーデケは、彼の耳を試し、
彼が絶対音感を持つという母の説明を確信し、彼に音楽院の入学を認めた。ラーデケのブルーノ・シュ
レジンガーに対する評価は、それ以後、終生彼の心にずっと残ることとなった。「彼は全身これ音楽な
り」と。
 音楽院は、母親の以前の声楽の先生であったジェニー・マイアーの監督のもと、今では拡張的に発展
していたのだが、マイアーはヨハンナの息子に大変目をかけてくれた。8歳で音楽院に入学を果たすと、
ブルーノは「小さなモーツァルト」として有名になり、甘やかされ、開いた口にキャンディを投げ入れ
られるかのごとく、すぐに若い女の子からの注目を浴びることになった。実際、彼は、人生の多くにお
いて女性からの賞賛があることについてこの上ない喜びを感じていたと思われる。
 9歳の頃、ブルーノは自分の手で作曲をしようと決意した。彼の母は、子供たちに「まもなく来る父
親の誕生日のためのびっくりネタ」を考えておくように言った。すぐにブルーノは叫んだ。「ぼくが
ヴァイオリンとピアノのためのソナタを作って、レオ兄さんと演奏するよ(レオは最近ヴァイオリンを
習い始めた)」
 「でも、お前は作曲する方法なんて知らないんじゃないのかい?」母親が言った。
 「うん、でも多分大丈夫」
 そして、本当に作曲の理論や訓練をすることなしに、彼は魅力的な小二重奏曲を書いた。不幸にも、
と彼の母は付け加えた。この小品は紛失してしまいました。おそらくブルーノ自身によって取るに足ら
ないものとして破棄されたのでしょう。彼女は自分の息子をよく理解していた。
 最初のうちは、足をペダルに届かせるスペシャル昇降器具が必要だったけれど、彼は音楽院で目覚ま
しい進歩を遂げていた。フランツ・マンシュテットのクラスで短い予備期間をすごしたのち、ハインリ
ヒ・エールリヒ教授の上級ピアノ科に編入された。エールリヒは、ピアノと音楽史の教師として名声を
博していたが、ベルリン市の最も著名な新聞の一つである「ベルリン日刊新聞」の音楽批評家として
も有名だった。エールリヒの教科課程は、彼の著した技術訓練書「ピアノの練習方法」によって行われ
たが、大変注意深く厳しいものだった。しかし、年を重ねるにつれ、その教練は彼の技術の向上に大き
な助けになっていった。
 事実、1889年に12歳のブルーノは、コンサートピアニストとしてその進むべく頭角を現した。シュテ
ルン音楽院がスペース拡張のためウィルヘルム通りに移転してまもなく、エールリヒは、シュレジンガ
ー夫人に、息子さんは、聴衆の前で演奏することができるようになったので、ベルリンフィルハーモニ
ーとのコンサートに参加してもらうよう手はずを整えているところだと伝えた。記録によると、そのデ
ビューは大変な成功に終わった。「Vossische Zeitung」誌は「彼は格別に印象的な登場をした。優
美な艶のあって、剛健であり、男性的な音で、ベートーヴェンの変ロ長調の協奏曲から1つの楽章を弾
いた」と報道し、「ベルリン日刊新聞」は、派手に書きたてはしなかったが、「ブルーノ・シュレジン
ガー少年は、実際の年齢とかけ離れた自由な表現力と安定さで最初の楽章を弾ききったと報じた。
 それに続く年は、若いピアニストは、精進しつづけ、ピアノのために偉大な文学の解釈に駆り立てら
れたり、彼の同世代であって非凡な才能があるヨーゼフ・ホフマンがベルリンで開いたコンサートに触
発されたりした。「私が聴いたベルリンでの演奏会は、輝くばかりの成功をおさめたが、その並々なら
ぬできばえは、私自身の計画や希望に対するはげましとなり、私の熱意をあおりたてた」と、彼は自伝
で語っている。1890年の2月、彼は再度演奏会を開いた。今回のコンサートはソロ作品(バッハのイタ
リア協奏曲、ショパンのロ長調変奏曲)とアンサンブル(一度ベルリンフィルと共演したモシュレスの
変ホ長調協奏曲)で構成されていた。「National Zeitung」誌は、「彼の旋律の歌わせ方や記憶力の
確かさ、そして音楽家としての最も重要な、他の人たちと一緒に演奏するというアンサンブル演奏での
安定感を褒め称えた。一方、「Vossische Zeitung」誌は、彼の生来のフレージングとリズム感にコ
メントした。彼は「機械的に訓練」されたピアニストではないと。彼は単なる優れた学生といったレベ
ルを通り過ぎ、本物のコンサートアーティストとして要求される独自の解釈を既に顕し始めていた。し
かし、優れた音楽家になりたいという真摯な気持ちとは別に、彼は演奏会の準備の間、「子供らしさ」
を決して忘れなかった。「彼は作品をすばらしい演奏で終えると、遊び盛りの子供のように、飛びは
しゃぎまわっていたのだ。」
 ブルーノ・シュレジンガーは、さらに別の能力も発揮しはじめていた。ジェニー・メイヤーの生徒の
伴奏者として賞賛を浴びていたのである。時間が空いた時には、彼は引き続いて作曲もしていた。もち
ろん、後に彼は、「創造性がまったく欠如している」として作曲することを棄ててしまうのだけど。演
奏会のピアニストとして、また声楽の伴奏者として、そして作曲家のひよことして精進しながら、若い
音楽家は自分の道を歩み始めたようだった。しかし、音楽家人生を永久に変える重大な転機が彼に訪れ
ることになった。彼はハンス・フォン・ビューローの指揮に出会ったのだった。
  後年ワルターが述懐したところによると、彼はその時まで、ベルリン宮廷歌劇場やフィルハーモニッ
クの指揮者には注意したことがほとんどなかった。だが今では、彼はティンパニの後ろの席に座って、
ビューローの表現豊かな表情に合わせてオーケストラが感情を表出するさまを聴いた。「同時にまた、
演奏しているのはこのひとりの男なのだ、彼はピアニストがピアノで演奏するように、百人の楽器をひ
とつの楽器に仕立て、その楽器で演奏しているのだ、ということをはっきり悟った―この演奏会の夕べ
が、私の将来を決定したのである。いまや私は自分の定めを知った。私にとっては、もう指揮意外のど
んな音楽活動も問題にならなかった。交響的な音楽以外のなにものも、私を真に幸福にすることはでき
なかった」
 もちろん、ビューローの指揮が深い影響を与えたのは、ワルターだけではなかった。リヒャルト・ワ
ーグナーの見解では、指揮というものは19世紀始めまではあまり重要視されていなかった。オーケスト
ラの指揮者は単なる拍子を刻むだけの者にすぎず、あるオーケストラではコンサートマスターが代わり
にその役目を果たしたのだ(しかし、このことだけを取り上げて、指揮者なしのいくつかのオーケスト
ラの演奏が、必然的に正確性や微妙な解釈を欠くと言ってるわけではない)。ワーグナーが主張するに
は、メンデルスゾーンのような有能な指揮者でさえ、音楽の進行のみに拘泥しつづけたのだった。つま
り、彼らの指揮は、感情を伴った演奏には欠かせないリズムの柔軟性にかけていたのである。先輩たち
に対するワーグナーの意見は、多分、話半分ぐらいに聞いておかねばならないだろう。というのは、彼
は自分のことを最初の真の創造的な指揮者であると信じていたし、彼より以前の指揮者たちの欠陥をは
なはだ誇張してあげつらい、また彼のメンデルスゾーンに対する人種上や音楽上の偏見は大変有名であ
ったからだ。そうではあったが、ワーグナーはオーケストラに対し、驚くべく強大な感情を吹き込み、
彼の指揮は、すぐに眩きそして閃きをもたらした。ボストンの若いピアニストのエイミイ・フェイは、
1871年、ベルリンでワーグナーの指揮を見てこう書いている。「彼はオーケストラをまるで1個の楽器
のように扱い、それを演奏しているかのようだった。彼は多くの指揮者のように、単純に拍子を取るの
ではなく、こうしたいと思ったことをオーケストラに指示するためにあらゆる方法を駆使していたのだ
った」 以上の話をまとめると、ワーグナーは、音楽的な解釈の責任がオーケストラの指揮者にあると
要求することを最初に正当化した人間であったし、そしてハンス・フォン・ビューローは、そんな彼の
自称「後継者」だったということだ。
 ビューローの指揮法は、ワルターとフェリックス・ワインガルトナーの両者の回想録の中に、ワーグ
ナーの指揮法に関する記載と似通った形で書かれている。つまり、「オーケストラは一つの楽器のよう
になり、ビューローはピアノを演奏するかのようだった」という表現である。後にワルターは、ワイン
ガルトナーとウィーンでのマーラーの後任者として出会うことになるのだが、ワインガルトナーは、
1880年代にビューローがマイニンゲンのオーケストラとの演奏旅行が演奏者と聴衆にいかに感銘を与え
たかを強調して書いている。それは、他の指揮者やオーケストラのメンバーたちは、その演奏を聴いて、
自分たちが行ってきた単に拍子を取るだけの指揮や古い感覚の軽率で感情のこもっていない演奏では、
聴衆には明らかに低いレベルの演奏であると思われるのだとはっきり認識したということである。美味
な料理満載のテーブルで一度その珍味を味わってしまえば、二度と露店での安物料理に満足しないよう
に。
 しかし、ワインガルトナーによると、ビューローの音楽に対する見解は大変辛辣なものであった。彼
の指揮に関するエッセイには、相当長い分量でビューローの指揮の問題点について記述されている。第
一義的で最も重要なこととして、彼はビューローの「教師的な要素」を挙げている。ワインガルトナー
はこう記している。自分の解釈を聴衆にしっかり植え付けるために、ビューローは作為的にテンポの変
化を誇張し、全体のテンポが速すぎたり、または遅すぎたりで、細部に至ると極端に突出した表現を与
えがちな演奏を行った。ワインガルトナーは、この誇張は特にビューローの晩年の演奏に顕著となって
きたと記している。だが、ワルターがビューローの演奏を聴いたのはまさにその晩年時代なのであり、
ワルター自身はその演奏を、「ビューローの解釈からは高い芸術的な純粋さが光を放っていた。誓って
もよいのだが、彼の解釈が、人の目にたつような、ましてや妨げになるような自由奔放によって曇らさ
れたことは一度もなかった」と記している。しかしそれに反して、ワルターは、自伝において若い頃の
演奏の解釈として、テンポを激変させたことの罪を認めている。そして「失敗から学び取り、是正し、
より純粋なスタイルに達するためにかなりの時間を要した」としている。おそらく、若きワルターの性
格が感情過多であったため、ビューローの演奏に感銘を覚え、その結果「高い芸術的な」という表現に
なったという推測も考えられる。いずれにせよ指揮者の晩年の演奏のみで指揮を判断するのは大変危険
なことであるといわざるをえない。我々に残されているワインガルトナーの録音で、1938年から40年
にかけて、ロンドン交響楽団と録音されたブラームスの交響曲集には、彼はその音楽が必要としている
上手なルバートが可能だったにもかかわらず、インテンポでの変化というよりはむしろ、感情的な節回
しやリズミカルな緊張や躍動がはっきりと指揮のスタイルとして表出されているのである。
 現在の我々には、実際にビューローがいかに音楽の細部に至る解釈やテンポの揺れを誇張したのか知
る由もないが、ビューローの教師的要素がワルターの指揮者としての職業の出発点となったことには間
違いがない。彼は、これまでよりもピアノの練習に没頭し、歌手の伴奏を続けた。後に彼が、指揮者を
志望する人たちに最も必要な事項として公私ともに強調したのはこの点であった。しかし一方では、彼
はロバート・ラーデケの指揮者クラスに編入を許可され、スコアを読み、通奏低音(当時は必要な技術
とされていた)や楽器法などの授業を受け、合唱やオーケストラのリハーサルを傍聴するという肥沃な
経験をもしていたのであった。
 音楽に情熱的に没頭する多くの人たちは、その青年時代または後年、以前には不得手であった作曲家
の作品に対し、これまでの音楽嗜好を劇的に変化させるような遭遇を経験することがある。かつては最
高の音楽的表現であると思っていたものが、退屈で平凡なものになってしまい、異質で奇妙に思ってい
たものが、自分の存在理由であるかのように変化するのだ。青年ブルーノ・シュレジンガーの出会いは、
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」であった。しかし、その時代、シュテルン音楽院の中では、ま
たワルターの両親、親戚、知人たちはこぞってアンチワグネリアンであり、伝統的な古典音楽の真の継
承者としてブラームスを信奉していたのだった。「さまよえるオランダ人」と「ローエングリーン」は
比較的受け入れ可能とされていたが、それ以後のオペラは避けられていた。中傷の対象であったワーグ
ナーを聴くことにワルターは興味を覚えた。特にワルターは、彼の教官たちがワーグナーが危険だとし
た理由がその官能性にあると知っていたため、「その肉感性をけしからぬどころか興味深いものだと思
っていた」。そして、彼は実際に、「トリスタンとイゾルデ」の上演を見に行き、自分を審判にかけよ
うと決意したのだった。
 音楽に実際に触れたときの影響というものは、事前の興奮や高い期待を最大限に予想しても計り知れ
ないものがある。ワルターは、ベルリン宮廷歌劇場の天井桟敷に座り、その音楽に触れたときどれだけ
驚き、圧倒されたかを回想している。「これほどの音響と情熱の流れが私の魂を圧迫し、これほどの苦
悩と憧憬が私の心を食いつくしたことは、いまだかつてなかった。また、かくも高貴な至福と、かくも
崇高な浄化によって現実から離脱したことも、いまだかつてなかった。もうこの世にいるのだとは感じ
られなかった。オペラがはねたあと、私はあてどなく通りをさまよい歩いた―家に帰ると私はものも言
わず、ただ何もたずねてくれるなと頼んだだけであった。法悦の念が夜もなかばを過ぎるまで、私の心
のなかで歌いつづけた。翌日目を覚ましたとき、私は自分の人生が変わっているのを知った。あたらし
い時代が始まっていたのである。ワーグナーは私の神であった。そして私は彼の予言者になりたいと思
った」今日、ワルターは、ワーグナーの予言者というよりもマーラーの予言者としてみなされている。
それは、ワルターがワーグナーのオペラの全曲演奏を遺した録音がないので、若年時代のワーグナーの
第一人者の夢は、はかなく潰えたかのように思われるかもしれない。それにワルターは一度もバイロイ
トで指揮をすることはなかった。それは主に、彼がユダヤ人だったという理由もあるし、1901年のコジ
マ・ワーグナーとの面談時に、不用意にも面前でヴェルディを賞賛してしまったという不幸な出来事も
あって、招聘される機会がますます無くなってしまったのだった。そのようなこともあって、ウィーン
やミュンヘンやベルリンの聴衆は長い間、ワルターがワーグナーを指揮するのを聴くことを特別なもの
として楽しみにしてきたのだった。
 それに加え、さらなる反対勢力、すなわちワルターの親戚や教官たちは、間違いなく極端な嫌悪感を
現していた。ワルターのピアノの教師であるハインリヒ・エールリヒは、実際にはワーグナーの音楽と
詩を高い評価を付け賞賛していたが、ワーグナーの個人的な性格と信条については深い疑いを抱いてい
た。エールリヒが1893年に書いたものによると、ワーグナーは反ユダヤ主義であるばかりではなく、そ
の上偽善者であるとしている。「もしワーグナーが繰り返し否定してきたように、そんなにユダヤに反
抗的であるならば、どうしてバイロイト歌劇場建設のために資金をユダヤ人から集め、彼らに要請した
のだろうか? さらに。ユダヤ人はキリスト教を理解できていないと明言したワーグナーがどうしてユ
ダヤ人であるヘルマン・レヴィをミュンヘンの宮廷楽長に任命し、パルジファルを指揮させたのだろう
か? しかし、ワーグナーの捨て置けない資質と誉められるとは言いがたい各種行動にもかかわらず、
エールリヒは、ワーグナーの創作物に心を動かさざるを得なかった。「彼の作品にはいくつ解決できな
い謎が含まれているのだろう?」エールリヒは声を大にして言う。「この男が音楽家として、詩人とし
て作ったものは、どうしてこんなに偉大で、美しく、気高いのだろう!」 もちろん、エールリヒは今
日のワーグナー愛好者を悩ましつづけるディレンマのことを言っているのである。どうすれば厭むべき
信条と不遜な行動の結果がこの天才的な作品を創造しえたのであろうか? 若きブルーノ・シュレジン
ガーには、ワーグナーの人としての望ましくない資質に関する批判や暗喩が耳に入っていたに違いない。
しかし、彼は明らかに作曲家としてのワーグナーを賞賛し、夢中になっていたので、そのことでワーグ
ナーのオペラへの熱狂を歪められることはなかった。事実ワルターは、後に、真の天才は、人間として
の欠点よりもむしろ偉大な作品によって記憶に留めるべきものだと理解するに至ったのである。彼は、
第二次世界大戦後に書いた短い文章で、「我々の演奏曲目の選択は音楽的な価値のみで決定されるべき
である」としているが、それは、ハンス・プフィッツナーの作品がコンサートで演奏禁止になった事件
に対するコメントである。「政治的な干渉に依存したプログラム編製を行うことは、すなわちナチスの
協議を我々の文化的な生活に持ち込むことになる」と彼は主張したのだ。もっとも、本物のナチ党員で
ある場合は(ワルターはプフィッツナーはナチ党員でなかったと主張している)、「ある種の制限」が
適用されねばならないと認めてはいるが。
 エールリヒの覚書が出版された時、まもなくワルターは、シュテルン音楽院での勉強を終えようとし
ていた時期だったので、ワルターはおそらくそれを読んでいないのだと思われるし、事実彼の自伝には
そのことに対して言及はしていない。彼はエールリヒの教育のテクニックや周到な指導方法は評価して
いたが、彼のことは「枯渇して生気を失った年寄りだ」と回想している。そして、ベートーヴェンのピ
アノソナタ「ハンマークラヴィーア」の演奏を聴く機会があったときは、「堰を切ったようなこの晩の
力強い魂の流れ」があったと驚いている。ワルターが、エールリヒがワーグナーを作曲家として詩人と
して誉めちぎっていることを読んだのならば、さぞかし驚いたことであろう。ワルターが他のワーグナ
ーの賞賛者がいたことを知らずにいたのは残念であるが、音楽史としてもワーグナー、ブラームス間の
対立は19世紀後半のドイツにおいては多くの論争を巻き起こしたのであった。
 この対立は、20世紀の音楽学者や批評家の間にも影を落としている。それは多くの若い音楽家たちに
影響を与えている。たとえば、エセル・スミスは、英国人の教官が、ワーグナーの曲を彼女のために演
奏したときに、どれだけ歌劇の芸術としての様式性から不快なものであるかを説明され、それ以後、ド
イツで演奏されるオペラを聴くことを夢見ていたが、ライプチヒのアンティワーグナーの会に参加する
ことによってその夢はあえなく崩壊した、と述べている。しかし、ワルターはどの作曲家よりもワーグ
ナーを生きる糧としていたが、ブラームスの演奏を拒否することはしなかった。そのかわり、彼は「高
い理想を持つ人々の意見に従って、両立しないものを無理に和解させるという試みはせずに、単に両方
の作品を愛したのだった。それにもかかわらず、彼のワーグナーのオペラへの傾倒をするための代償と
なったある種の欲求不満と孤独が彼につきまとうことになった。つまり、必然的にワーグナーのオペラ
のチケットを買うために、伴奏者としての仕事の報酬から金をかき集めたり苦労を重ねた。両親からは
とてもそのような金を無心することはできなかったのだ。彼はベルリン王室図書館に内緒で通い詰め、
ワーグナーのスコアを研究し、彼の著作を読み、それら、特に有名な指揮に関するエッセイは、ワーグ
ナーの音楽と同じく彼に多くの影響を与えた。イェニー・マイヤー女史は、生徒の一人が「ニュルンベ
ルグのマイスタージンガー」からの抜粋を演奏したのを聴いたあと、「私はこの音楽が好きではないし、
ふだんならここで聴きたくもないのです」とやさしいが威厳ある態度で言った上で、「けれども、ここ
にいるブルーノを喜ばせてあげようと思ってね」と言ったとき、ワルターは真実すっきりした気持ちに
なったのだった。かくして無罪放免、あいだがらは公明正大となり、ここにワルターは、表向きにも全
身全霊で彼の新しい英雄に傾倒をすることができるようになったのである。
 王室図書館では、ワーグナーに直接関連しないけれども、彼の指揮者のキャリアに有用な準備をする
ことができた。ワルターは、あらゆる楽器に慣れ親しむかのように、そこに毎日のように通い詰めた。
図書館司書は、この少年を不審顔で迎えたが、彼の好きなように閲覧させた。そのため、「Allgemeine 
deutsche Musikzeitung」の前編集者である批評家ウィルヘルム・タッパートは、リュート音楽の先駆
的な研究者であったが、彼が本を読もうとするときはいつもブルーノが先に使っているために待たされ
るとぷんぷん怒っていた。彼はまた、オーケストラのスコアをピアノに編曲し−当時研究用の安価なス
コアはまだ存在していなかった−そして、オペラハウスの立ち見席に灯る非常口の赤ランプの下で、彼
はその楽曲の再点検をしながら書き付けたメモを見て、音響を記憶にきざもうとしていたのだった。
 指揮者の志望者にとって、演奏するための楽器がないという点で、音楽家の中では特異な状況に置か
れている。ワルター自身もこの問題を、著書「音楽と演奏」の中でコメントを残している。指揮者の本
来の楽器であるオーケストラを使えるようになるのは、学生時代の終わりの頃、たいていはそれを終え
てからであるから、指揮者の卵たちは、すぐに自分の思い通りに操ることはできない。彼らは、他の方
法でもその準備をしなければならないのだ。つまりそれは、歌手の伴奏を務めるとか、コンサートに出
かけて他の指揮者を観察するとか、スコアを研究するとか、もっと一般的には、興味を持って偉大な先
人たちの精神や人生に関する書物を読んだりしなければならないということだ。「指揮者の修業過程は
音楽に限られるわけではない。音芸術の世界には、きわめて多くの心情的=人間的なものがこめられて
いるから、指揮者の芸術的なできばえの価値は、その人の人間的な特性および可能性によって大いに左
右される。倫理的心術のまじめさ、感情のゆたかさ、精神的視野の広さといったもの、要するにその人
の人格が、音楽的なできばえに決定的な作用をおよぼすのである」偉大な文学作品によって、若い頃の
ブルーノ・ワルターは、彼の創造力が醸成された。デフォーやシェイクスピア、ゲーテ、シラー、カン
トそして後にショーペンハウエルたちの著作などである。また、彼は音楽的知識も引続き拡充した。あ
まり有名でないロシアの作曲家によるオペラにも傾倒したり、またフェリックス・モットルの指揮を聴
きにバイロイトまで旅をした(そこではワーグナーの墓にも訪問している)。だが、彼はオペラハウス
での実際的な経験に、新発見の知識を置換えることにも注力していった。オペラを上演できるその時が
来るまでに、巨大で未知の力を征服する能力を完全に掌握できるように、彼はその不安を払拭したかっ
たのだ。
 ワルターは、ベルリンの劇場のどこかで助手の地位を得て、自分を試したいと希望し始めていた。彼
は、時々イェニー・メイヤーに頼まれて、劇場のオーディションに出る彼女の生徒の伴奏を務めていた
し、1892年12月に開かれたチャリティーコンサートでは、彼は多くの音楽院の歌手たちのためにピアノ
を演奏した。しかしこの時点では、ベルリンにおいて助手の機会を得ることはほとんど見込がなく、さ
らに彼をがっかりさせたことは、誰もワルターが力を発揮できる地位に推薦しなかったことだった。
 その流れは、アルノー・クレッフェルがロバート・ラーデケの代わりにシュテルン音楽院に就任した
ときに変わり始めることになった。ワルターの著作にケルン歌劇場での首席指揮者であるという記述が
ある以外、今日クレッフェルについてはほとんど何も知られていないが、後日ワルターがデビューする
時には、「アルノー・クレッフェルの生徒」として、クレッフェルはケルンの社交界に通用する名声を
馳せていた。ワルターは、クレッフェルの下で作曲を学んだ。そして、1893年3月18日、ワルターは、
自身が作曲し、イェニー・マイヤーに献呈した「合唱とオーケストラのための『海は凪いで』(ゲーテ
のテキストによる)」を上演することで、指揮者と作曲家としての能力を世に知らしめることとなった
のだ。ジングアカデミーホールでのこの上演は、ワルターがベルリンフィルハーモニックとの非公式で
の指揮者デビューとして位置づけられる。その一方で、クレッフェルの指導の下、ワルターは歌曲「Der 
Ritter uber den Bondensee」を作曲し、また密かにオペラ「アグネス・ベルンワウアー」−ヘッベル
の悲劇をベースにした−を作曲していた。だがその作品は第2幕まで作曲された後に「全体としては全く
未熟で、奇妙なことにまるで非ワーグナー的なものであった」として破棄された。クレッフェルは、若
き弟子の能力を高く評価していたようだった。そして、彼はケルンの芸術監督をしていたユリウス・ホ
フマンにワルターを推薦し、その結果、ワルターは練習指揮者として、1893年9月から始まるシーズン
の1年契約をすることになったのだった。こうしてワルターの学生時代は終了し、彼は、以前ローマ帝
国の植民地であったケルンに向けて、不安と高い志をもって旅立ったのであった。
 事実上の初仕事の就任に伴う緊張感は、仕事の極端な多さによって、あっという間に吹き飛んでしま
った。練習指揮者の仕事は、全くの下働きと同義であって、ワルターの役割は大変広範囲をカバーする
ものであった。つまり、新作オペラの上演に際して、芸術監督に意見をするために首席歌手を指導する
とか、歌手のオーディションを受け持つとか、舞台裏でのリハーサルを行うというものであった。1894
年の1月11日付で、彼の両親に宛てた手紙の中で、彼は、この4ヵ月は忙しさであっという間に過ぎ去り、
長い間音信が途絶え、不安にさせたことを詫びている。−「一日は今のぼくには他の一日と選ぶところ
がないからで、このように一様であれば、どんなに速く時が過ぎ去るか、ぜんぜん気がつかないもので
す。」彼は、多くの歌手たち、特に、バリトン歌手のバプティスト・ホフマン(後年、ベルリン宮廷歌
劇場の歌手となり、ワーグナー歌いとして特に知られることとなった。20世紀の初頭に数個の録音が残
っている)と親交を深めた。ときどき、歌手個人との親密に仕事をするというワルターの能力は、ある
種の欲求不満をもたらすことになった。詳しくいうならば、指導段階で磨き上げられた成果が、実際の
上演においてしばしば失われてしまったからだった。「実に迫力ある表現にまで発展させておいたもの
が、舞台稽古や本番になると、指揮者のあまりにも早いテンポのためにすっかり消えてしまったり、ひ
きずるようなリズムのために台無しになってしまったり、あるいはまた、演出家の振付によってまるで
効果のないものになってしまうことが、よくあったのである」実際のところ彼は、音楽的な理想と劇場
の欠点との間の葛藤に由来する決して解決しない引っ張り合いというオペラの落とし穴に嵌まり込んで
いたのだった。
 ケルンでは、この問題は特に目新しいものではなかった。ワインガルトナーも、オペラの指揮者が直面
する問題について、苦々しく不平を述べている。適切なリハーサルの不足や、あまりにも多くの公演、
歌手に指揮者の全ての見解を与えない上演、手におえないワインガルトナーの不満をただ伝えるだけの
音楽を知らない舞台助監督というような。ワインガルトナーは、歌劇場に務めた時代を、「無用に浪費
された労働時間や個人の能力に対する強制的な圧力、そして数少ない孤立した救いはあったものの、理
想に一歩ずつ近づこうとする無益な努力の排斥」とみなしている。当時17歳のシュレージンガーは、自
分自身が極めて楽天的な性格であったため、あえてその種の苦労に悩むことをしなかった。しかし、ケ
ルンにはあまり長くはいなかったが、彼もまた、それに類似した欲求不満によりだんだん憂鬱になり始
めた。「私は、戯曲的にも音楽的にも鈍感な上演と、劇場を支配していたマンネリズムの精神に対する
当時の自分の無力とに悩み始めた」彼はそう回想している。彼は、年配の同僚の多くと比べ、劇や音楽
についてより高い理想をもっていることを理解していた。社会的には内気な性格ではあるが、音楽的に
は自身に満ち溢れ、現実の上演が彼の目指した芸術の到達点にならないときは強く落込んだが、彼の楽
天的な性格によって、再び次の演奏に理想を求めて邁進することができるという、有能な若者にそうい
った画像が描かれ始めたのである。
 おそらくワルターの欲求不満は、練習指揮者の地位に甘んじている間に、だんだん耐えがたいものにな
っていたと思われる。だが早い時期に、彼は、2つの19世紀の音楽作品、カール・ライネッケの「ゆり
かごから墓場まで(Von der Wiege bis zum Grabe)」(パントマイムとバレエを足して2で割ったよ
うな作品)とヨハン・ネストロイのいくつかの楽曲を含んだ「ルンペン放浪児(LumPazivagabundus)」
の上演を指導するように委託されたのであった。ワルターは、この作品については「普通のオペラ指揮
者が行う品位ある曲以下のものである」とは認識していたが、それ以前に彼は、オーケストラに指図する
機会を持つことを大いに喜んだのだ。その後、ワルター自身が後日、指揮者として公式デビューとなっ
たものと位置づける転機がついに訪れた。ケルンに赴任してわずか7か月後の1894年3月に、ワルターは、
アルバート・ロルツィングの生き生きと魅力的なジングシュピール「ヴォルムスの武器つくり」の再演
を担当する機会を与えられたのだ。シリアスなオペラとしてではなく、コミカルで戯曲的な作風として
知られるロルツィングの作品は、当然ワーグナーの作風とは大きな隔たりがあったが、彼の作品は、若
い指揮者が自分の力を発揮できるだけの旋律の妙と複雑なアンサンブルで構成されていた。「武器つく
り」が1846年5月30日にウィーンで初演された時、ウィーンの新聞や聴衆は、無反応であったが、ドイ
ツでは大成功を収めたようだった。というのは、19世紀後半までには、その作品は、ドイツのオペラ劇
場の主要なレパートリーを占めていたからである。またそのことは、ワルターが1896年にブレスラウへ
行った時、それを再び取り上げたことからもうかがえる。ワルターは、軽い喜歌劇の信奉者ではなかっ
たが−後年、多くの曲を指揮する必要からこういう曲の演奏はしなくなった−、彼は、もちろん最初に
指揮したこのオペラに愛着を持ち続けた。
 ワルターのデビューに対する批評は、賞賛しているものが多かった。1894年3月21日のケルン新聞は、
「鋭いリズミカルな感覚」そして「音の美しさに対する偉大な感情」と評して賞賛した。「ケルン民衆
新聞」誌は、ワルターは指揮者プロデビューの最初の情景として、詳細な記事を書いている。「頻繁に
加速をかけるテンポの変化は、この新しい指揮者の特性だ。シュレージンガー君、確かに君には確実性
と決定力があり、特筆すべき分別を示した、非常に才能のある音楽家だと思う。非常に若い指揮者(シュ
レージンガー君はまだ19歳になっていないのだ)のデビューには、必要とは思えない多くの指示、我を
忘れたかのような手と頭の動き、また時には、オーケストラが後方に取り残されてしまうような悲惨な
状態(もちろんそんなことはなかったが)の演奏がつきものであることはよく分かっているが」この記
事を読むと、楽器への統率が要求される場面で、まだ自分をしっかりコントロールできない若い指揮者
の様子を描いたものだという印象を感じるに違いない。しかしそうではなく、全体の音楽の解釈につい
ての明瞭な考えを備え持ち、手と頭を不要なくらいに激しく動かすのは、自分や第三者への顕示とは関
係がなく、実際には、単なる拍子を取るだけの従来の指揮者とは違った、彼の英雄、ビューローへのワ
ルターの憧れが表出されたのだということに思い当たるだろう。
 彼のデビューは水曜日にあったが、最後の瞬間に、続く土曜日に「武器つくり」の再演を行うことが
決まった。「しかし、私にとって重要な出来事が起きたのです」と、ワルターは、4月の初めに両親に
手紙を書いた。その手紙には、どういう事情で、歌手の不調により、劇場の経営者たちが、「連隊の娘」
をキャンセルし、何年もの間、役を演じてこなかった2人の歌手を加えて「武器つくり」を上演決定さ
れたかの顛末が書かれている。ワルターがそのニュースを聞いた時、彼はその晩休みを取って劇場にお
らず、バプチスト・ホフマンの練習のため外出していた。ワルターは慌てて劇場に戻ったが、そこには
新人に土壇場で決定された上演の指揮を任すのに懐疑的な各責任者がいて、彼らとの間で、直接に協議
を行うこととなった。

「ぼくが監督事務所に入ると、監督とオカート(演出主任)とミュールドルファー(オペラ楽長)、そ
れにグロースマン(劇場楽長、2人とも指揮者)が立っていました。
グロースマンがこう言っているところに、ちょうどぼくは来合わせました。
「いや、私には危険すぎることです、そんな冒険はしません。てんで事情が分かってない人たちを取り
まとめておくには、老朽な指揮者こそ適任なのです」
そこでぼくは、監督の方に向かって行きました。
「何がご入用で?」と彼は言いました。
「指揮です、もちろんですよ、監督さん。」とぼくは言いました。
すると例のグロースマンが、ぼくを励ますために肩をたたいて言いました。
「さあ、ご自分でもびっくりしますよ」
かくしてぼくは指揮をとり、沈着と気力と注意力によって、その上演を首尾よく取りまとめました。

 グロスマンの半信半疑なコメントにもかかわらず、ワルターは、リハーサルも不十分な歌手がいたの
だが、再び急場の火災のような試練を無傷で切り抜けた。しかし、彼の2つの成功は、嫉妬のヘビをケル
ン歌劇場へ放つという不幸な効果をもたらした。おそらく、このヘビは暫くの間活動を休止していたが、
手紙ではそれが動き出したことが暗示されている。彼は、17歳であるということから、まだ音楽に関す
る意見を相手と闘わせることを避けようとしていたが、あの最後の瞬間、みずから指揮台に飛び上がり、
上演をどうにかうまくまとめあげたことが、自己の能力に自信を持っていなかった同僚たちにとっては
既に我慢の限界だったのだ。
 ワルターは、最初の上演の後、ホフマンもオカートも彼の成功について何もコメントしてくれないこと
に対する不満を、両親に前に書いた手紙で漏らしている。特にオッカートは、ワルターが自信を付けて
いる様子に閉口しているように見えた。恐らく彼とワルターは、舞台に関して何回か意見を衝突させた
のだと思われる。いずれにしても、土曜日の上演が終了しても、オッカートや他の監督たちは沈黙を続
けたのだった。そして、ワルターの両親への手紙に書かれているが、さらに困ったことが起きた。テノ
ール歌手のブルーノ・ハイドリヒが、ある新聞社と共謀して、ひどい批評記事を載せたのだった。
「そこで、『日曜新聞』に一篇の記事が載って、それにはぼくが物も言えないほど、憎悪に満ちた筆を
ぼくに向けていました。次に別の新聞がぼくを取り上げ、かくしてぼくをめぐる本格的な戦いが展開さ
れたわけで、先週ぼくは関心の的になっていました」この頃、ハイドリヒは、ワーグナー派としてよく
知られており、ケルンに加えて多くのドイツの歌劇場で歌手として活躍していた。しかし、彼はまた2
つのオペラの作曲家でもあり、そのうちの1つは、後に自身の指揮でケルンでも上演された。ハイドリ
ヒは、自分が地位を占めようと望んでいたポジションに、ワルターがじわじわと進出してくることを怖
れたのだろう。
 ワルターの両親は、息子が持っている高い理想と、批判じみた点をよく言う傾向があることをよく理
解していた。彼らは、翌週に送る手紙の中で、ワルターにいくつかの注意を与え、そのことはワルター
に何らかのヒントを与えた。ワルターは、これら扱いにくい人々の動きに絶えず注意していることを手
紙に書くことで彼らを安心させようとした。「お便りによりますと、ハイドリヒや監督や演出主任の憎
しみとか敵意が不可解だ、あるいはぼくのほうの無思慮のなせるわざではないかとのことです。あとの
点では間違っておられます。というのも、当地でぼくは始めから発言に注意していたからです。だれで
あれ、他人が少しでも成功すると、最大の妬みと憎しみをかきたてられる人間がいますが、ハイドリヒ
もその一人です」この手紙の添え書きには、ハイドリッヒやその他の人たちの顔が風刺漫画のように描
かれているが、それはあからさまで、かなり下品に描かれていて大変面白い。この事件は、ケルン歌劇
場に対し練習指揮者の辞表送付を決意する重要な要素になったのであるが、全くこのエピソードからわ
かるとおり、確かに彼には少年のようなユーモアセンスが備わっていたのだった。
 ワルターのデビューと、それに続く急な再演が成功を収めたことによる彼の喜びと誇りは、同時に発
生した嫉妬と憎悪によってしぼんでしまった。だから、ハンブルグ国立劇場からの練習指揮者の話を受
けて契約したことは、彼を大変喜ばせた。「前任の合唱指揮者は解職されました。非常に幸せです」と、
彼は両親に手紙を書いている。しかし、ワルターは、この契約がもたらした思わぬ幸運には気がついて
いなかった。それは、ハンブルグでの首席指揮者は、グスタフ・マーラーであったことだった。
 ワルターとマーラーは、ハンブルグで出会い、その親密な親交と芸術的な協力は、マーラーが死んだ
1911年まで続いた。ある報告によると、マーラーは最初にワルターに会ったとき、この若者が、最近自
殺して亡くなった彼の弟、オットーにそっくりだったことにひどく驚いたという。忘失の悲しみに、こ
の作曲家は神がワルターを兄の代わりの使徒として人生に遣わしてくれたのだと考えていた。一方、ワ
ルターは、初めて出会う前から、マーラーの第1交響曲の不評記事や、マーラーについての否定的なコ
メントを読んで、以前、ワルターの仲間や家族がワーグナーに対して中傷をしたときと同じような気分
を抱き、マーラーに大変興味を持っていた。彼ら2人の最初の出会いは、ワルターの叙述にあるととも
に、マーラーとワルターの信奉者として有名なマーラーの妹たちにとっても、よく引用された印象深い
出来事であったようだ。

 ワルターはハンブルク歌劇場でマーラーに偶然出会った。 
「じゃあ、きみがこんど来た練習指揮者だね」と、マーラーが言った。
「ピアノはうまく弾けるかね」
「ええ、とてもうまく」と、私は答えた。私はほんとうのことしか言いたくなかったし、いつわりの謙
虚はおそらく、偉大な人間に対してはふさわしくないと思われたからである。
「初見でうまく弾けるかね」と、マーラーはたずねた。
「ええ、なんでも」と、私はこんどもありのままに答えた。
「それから、よくレパートリーにのぼるオペラは知っているね」
「とてもよく知っています」私がかたい自信をこめてこう言うと、マーラーは大声で笑い、親しみをこ
めて私の肩をたたき、
「どうだ、じつにいい返事だな」という言葉で会談を閉じたのだった。

マーラーは、すぐにこの若い助手の行ったことが誇張でないことを発見することになり、そしてワルタ
ーも、すぐに名指揮者としてのマーラーの評判が真実であることに気がつくことになるのであった。 
マーラーの指揮は、ワーグナーとビューローにおける影響よりもさらに大きな効果をワルターに与えた。
ハンス・フォン・ビューローのように、オーケストラに対するマーラーの統率は、多くの聴衆を畏服さ
せた。アメリカの作曲家アーサー・フートは回想している。「彼の指揮は、オーケストラを自分の楽器
のように演奏していた」 ワルターは、立ち会った最初のマーラーによるリハーサルを聴いて、ワルタ
ーは驚嘆し、威圧感さえ感じた。彼はこう回想している。「私は、こんな激しい性格の人物を見たこと
がなかった。きびきびしたことばが、また圧倒的な動作が、また一定の目的に向かってきびしく突進す
る意思が、かくも人を驚愕させ、かれらを盲目的に服従せしめることのできる人物を夢みたことさえな
かった」 マーラーが行ったことそして、彼が聴衆に何をもたらしたかを理解し、ワルターは、これま
での自分の演奏に不満を覚えた。ケルンの批評家たちは「武器つくり」の上演について非常に明確な賞
賛を贈ったが、マーラーが引出す解釈の劇的な表現や深淵さと比較して、ワルターの「武器つくり」の
上演は、その演奏の容易さもあるがほんの小さな業績に過ぎなかったことに気がついたのだ。しかし今、
マーラーの影響の下にあって、ワルターは、演奏により大きな正確性を期するとともに、より大きな表
現の高みを目指して邁進することを思った。マーラーが行ったように、情熱と正確の間のバランス感覚
の達成は、彼の目標となった。また、彼は、自伝の中でこう書いている。「感情のために音楽的な厳正
をないがしろにするという、私の気がかりな傾向にとって、ここに多くの学ぶべき点があった」
 ワルターは、自分がどんなにうまくやっても、マーラーの演奏の域には達しないという憂鬱な感情に
時折とらわれたが、マーラーのリハーサルをよく観察することは、今彼が演奏できることは何かという
のがわかるという意味で、逆に自由な解放感を感じていた。「私はまだ若かったけれども、すでに日常
性という仇敵を持っていた。しかし、いまはもうそれもこわくなかった―そんな仇敵を無力にし、一分
毎に自己を新たにし、仕事においても生活感情においても放棄ということを知らない、ひとりの男がい
たのだ―」 仕事のやり方や芸術的指向に関しての、ワルターに対するマーラーの影響は深遠で長期に
渡るものであり、そしてその深さはあまりにも強大であったため、ワルターは、後にその影響への不安
を実感することになったことは疑いがない。「大切な自己分析を犠牲にして」とあるように、彼は自分
がマーラーのコピーではなく、自身の芸術的な個性を持っていたと確証するために苦労をした。それに
もかかわらず、ワルターが、マーラーの死の20年以上後に録音されたワーグナーの「ワルキューレ」第
1幕に見せた高い挑戦は、マーラーへの負い目を払拭したものだといえる。アルマ・マーラー・ヴェル
フェルは、この録音について、ウィーンでマーラーの指揮による「ワルキューレ」の上演を想起して、
少しはにかみながら賞賛の意見を述べている。「マーラーの演奏は、これまでに、それから今後も聴く
ことがない素晴らしいテンポの演奏でした。そして、当初、ブルーノ・ワルターは、どこかおどおどし
て経験不足であったが、ついにマーラーが理想した境地に非常に近づきつつある」 そして、マーラー
の作品を指揮する機会が来ると、ワルターは、ニューヨークフィルハーモニックとの第5交響曲の録音
と、マーラーが遺した第1楽章のピアノロールによる記録が、際立って似ていることを示し、コンサー
トでは、マーラーがピアノで弾いた演奏の記憶にしたがって交響曲の解釈を行うことを、喜んで当然の
ごとく約束したのだった。ここにきて、アルマは惜しみなくワルターを高く評価し、彼を支持したのだ
った。「(マーラーの音楽の)あらゆる微妙な箇所において、そして、彼オリジナルの解釈を加えられ
て、完璧な表現でした」
 しかし、ワルターが進んでマーラーの教えに従ったハンブルクにおいても、ある重要な点、すなわち
専制君主として君臨するということで、マーラーの真似はできないことを感じていた。つまり、批評家
フェルディナンド・ポールが意見を述べているが、「マーラーはオーケストラという団体の専制君主で
あった。彼は沈鬱な面持ちで指揮台に構え、団員を脅かしていた」 ポールは、彼とマーラーは、ハン
ブルク時代からの知己であるが、リハーサルにおいて、あるフルート奏者があるフレーズを何度演奏し
ても、マーラーが望むように演奏できなかったために、全楽団員を前に、彼を「とんでもない素人」と
呼んでひどく恥をかかせたことを回想している(そのフルート奏者は、結局目に涙を浮かべながら走っ
て出ていったのだ)。ワルターは、この事件については何も言及していないが、彼はおそらく多くの似
たようなことを目撃していたに違いないだろう。
 多くの演奏者の違った個性と解釈を一つにまとめあげる方法という点で、指揮者の権威という問題は、
若い指揮者にとって悩ましげなものであった。彼が薫陶を受けたマーラーの一体化した完壁な演奏を達
成するためには、彼は、指揮者というものはある権威を持っていなければならず、オーケストラに崇高
に君臨しなければならないと感じていたし、また、彼は、この点において性格上明らかに欠けているこ
とを知っていたのだった。その時彼はまだ若く、演奏家が尊敬する指揮者としての経験にも不足し、芸
術的な目的といえども、強力な音楽的な意見を持ちながらも、演奏家に恥をかかせるようなことができ
ない情け深い性格であったため、彼は、演奏者を支配するということができなかった。その結果、彼は、
演奏者に命令するというのではなく、演奏者をいかにうまく扱うかという方法を模索し始めたのだった。
「歌手たちや楽員たちが、この恐ろしい人の威嚇する目の前から、すこしも恐ろしくない若造の領域に
来たときぐらいは、ゆっくり休養しようと願ったとしても、これほど自然な話があっただろうか。私に
はそれがよく解っていたので、自分の目的にかない、自分の天性にふさわしいと思われた心理的な方法
によって、メンバーに働きかけようと努めた。成功しないこともたびたびあったけれども、しかしこれ
によって私は、それまで注意もしてこなかった自分の人柄の一面、すなわち教育者的な素質を知って慰
められたのである」 ワルターが初期の段階で既に把握していた、この彼とマーラーの本質的な相違に
ついて、それが若さによるものではないということを、1896年の夏に、マーラーと逗留したスタインバ
ッハのアッター湖で最初に出会った、詩人であり批評家でもあったリヒャルト・シュペヒトなどの同時
代の人たちが述べている。
 シュペヒトが述べるように、ワルターの指揮は、外形上マーラーに似ていた。また、ウィーンで1901
年より始まる、マーラーの助演指揮者時代の最初の年には、既にワルターは、特に「激しく嘆願するよ
うな動きの指揮をするといったマーラーの指揮の癖を完全に押さえていた。しかし、ワルターの固有の
個性は、マーラーとは完全に異なっていたのだ。「温和で、人生や芸術の問題についての激烈さを控え
め表現するワルターの性格は、彼自身の特別な理想において、まゆに包まれたかのように守られた、素
晴らしく美しい無邪気さを持っていた」 シュペヒトがマーラーの演奏で聴いた緩みのない緊張は、ワ
ルターの手にかかると何かリラックスを感じさせた。つまり、「ワルターはよりロマンティックであり、
より夢のようであり、さらに、豊潤であり…クライマックスの頂点であってもそれほど激烈でなく、指
揮棒を巧みに使った崇高な指示は、突然の霊感によって即興的な感情に身を任せしばしば揺れて、不規
則な状態となり、オーケストラのメンバーを時折不安にさせた。というのは、彼らは総ての瞬間におい
て、ワルターが生み出す新しい驚きに備えねばならなかったからだ」 シュペヒトが述べた小さなニュ
アンスを出すために、ワルターが演奏者たちに十分な集中力を要求したことは、彼らをうろたえさせる
ことになったかもしれないが、彼の意図は彼らを個人的に困惑させることではなかった。彼の晩年のリ
ハーサルの録音や映像で、たとえば不満を表わす言葉、「みなさん、私はまだハッピーではありません」
という発言に見られるように、その指揮ぶりは、独裁的なものを排除した言葉巧みで魅力的なものであ
ることが発見できるのだ。しかし、ヴァンクーバーで行われたブラームスの第2交響曲の第1楽章のリハ
ーサルでの最初の音合わせの段階で、彼は、演奏者に目配りをしながら彼らを大変驚かせたこともあっ
た。彼はオープニング・テーマの第1主題の中でのフルートの高いF音を繰り返し演奏させたが、その次
の演奏では、まるでそのことが全然重要でなかったかのように通りすぎていくのだ。それは、彼のリハ
ーサル技術の頂点であり、彼の長年の経験から生まれた安定さの結果としての特別な、あくせくしない
スタンスであることがわかるのだ。しかし、もともとそれは、彼が駆け出し時代に目指して進んだ目標
であったに違いないのだ。 ハンブルクでマーラーに出会ったことが、ワルターに音楽における新しい偉
大性を獲得させただけでなく、彼自身の人格についてより多くの大事なものを学ばせたのであった。
 1896年の夏に、ワルターは、マーラーの新しい交響曲である第3交響曲の初演を聴く機会に恵まれた。
その曲は、後年ワルターによっても幾度か演奏され、大きな称賛を浴びたのだが、マーラーは、自分が
傑作をものにしていることをわかっていたし、彼は、さらに批評家がこの曲を嫌うだろうと痛いほど性
格に予言した。この長大な交響曲には、彼が注力した自然と人間と神の領域における荘厳さが織込まれ
ている。ワルターが7月にスタインバッハのアッター湖に到着した時、マーラーは、桟橋の上で彼に会
い、彼の荷物を運んだ。マーラーの家へ行く途中で、ワルターは岩がごつごつしたヘレンゲビルゲ山(文
字通り、地獄山)を観た。マーラーはコメントを加えた。「君はもう何も見る必要はないのだよ。僕は
音楽に皆使い尽くし、また描きつくしてしまったのだから」ワルターの滞在の間に、マーラーは、ワル
ターにスコアを見せ、ヴィオラ奏者ナタリー・バウアー・ラヒナーのために作られ、よく知られるよう
になったいくつかの曲を順に演奏した。
 ワルターのマーラーに対する傾倒は、一方通行なものではなかった。マーラーもまた、深くワルター
の能力に感動し、フェルディナンド・ポールによれば、ベテランの指揮者の手に委ねても手こずることが
多いといわれている「アイーダ」の上演を、ワルターの指揮にまかせるよう、劇場監督のポリーニ(実際
の名前はベルンハルド・ポールといった)に説得したのだ。しかしマーラーは、ワルターが頭角を現すこ
とを確信し、その賞賛があまりにすごいものであったので、ポールは、才能が期待される若手指揮者でも
実現できないような素晴らしい演奏を期待することになった。もちろん、ポールは、ハンブルグでのワル
ターの第2シーズンの途中である、1895年11月21日のその演奏会に、マーラーから誘われるまでもなく、
自ら演奏会に赴いた。ポールは回想している。 「指揮台の前で、私は、二十歳になったかならないか
の青白い顔をした若者と出会った。そして彼は、疑いもなく、マーラーが彼にかけた信頼を裏切ることな
しに、場面ごとの指揮ぶりや彼の活力や感情の創出を確実に行っていったのだ」 第2幕のフィナーレま
では演奏はスムーズに進行していったが、そのフィナーレにおいて、若い指揮者が大きな力を支配する仕
事とは釣り合わないとポールが考えた、アンサンブルのトラブルが生じたのだった。 「それは、合唱・
ソロとオーケストラと舞台上のトランペット演奏者との間に起きたひどい混乱だった。もし、威厳のある
凱旋行進曲の冒頭から、演奏者たちが一致団結できず、満足いく終結をしようと意識しなかったならば、
その上演は、致命的な大惨事になっただろうと推測される事態だった」
 ポールの回想は、まるで彼がワルターの指揮を初めて聴いたかのような書き方であるが、彼は2か月前
の9月にあったマーシュナーの「ハンス・ハイリング」の演奏を現実に検討し、同様に好意的な印象を持
った。そして、彼はこう書いている。「驚くべきことであった。この若者のオーケストラの指揮は、なん
て柔軟であると同時に手堅いのであろうか。また、巨大な楽曲をコントロールする安定さに加え、彼が作
り出す音楽はなんて味わい深いものなのだろうか」 明らかに、マーシュナーのアンサンブルの大きさは、
ヴェルディのそれより技術的な挑戦という点においてかなり少ないサイズであった。スペックと同様に、
ポールは、新鮮さを発見したかのように、改めてワルターの豊潤さに関してコメントをした。「精神が苦
しめられ破滅する段階に残るある種の無気力さを、彼の中に見つけることはできない」 しかし、いわゆ
るワルターの豊潤さは、時には余計なこと証明することになった。マーラー自身は、アイーダの上演の後
に、彼が目をかけていた教え子のアンナ・フォン・ミルデンバーグへの手紙の中で、ワルターを批判した
のだ。そうなったわけは、彼女は、このオペラで主役を歌ったのだが、ワルターが前のアリアでテンポを
速くとりすぎ、ブレスのタイミングを巧く与えなかったため、彼女がその後に歌ったアリアの終りが、予
定したとおりにうまくいかなかったということだった。しかし、時々生じたこれらの障害−学習過程とし
ては当然の結果ではあるが、高い標準を目指している若い指揮者にとっては、きっと不愉快なことだろう
−があるにもかかわらず、マーラーは高い尊敬をもって、この助演指揮者を支持し続けたのだった。
 ポリーニは、高額な契約金をとるビッグネームな歌手と契約することを好んだ。しかし、当然ながら彼
らはタイトなスケジュールを持っており、その結果、リハーサルやマーラーが望んだ芸術の創造のために
必要な時間がとれなかったことから、マーラーのポリーニとの関係は、気まずいものになっていった(ポ
リーニは、合唱団やオーケストラの演奏家に対しては、スター歌手が受け取る報酬からすると、雀の涙程
度の報酬しか払わなかったのだ)。そして、ついに1897年、マーラーはハンブルグを去ることを検討し始
め、すぐにウィーンへ行くことを決意したのであった。というのは、ブレスラウ(シレジアの首都で、今
はブロツラフ(ポーランド)として知られている)には、シュレージンガーという名前を持つ人が非常に多
かったので、ブルーノ・シュレージンガーは彼の名前を変更することを求められたからだった。
 ワルターの生きた時代の間、また彼の死後でさえ、折に触れて人々は、自分の経歴を有利な立場とする
ために、ユダヤ名を全面に出さないようなことがされていたのだ。もちろん、そうしたのはワルターが最
初でも最後でもなかった。まだあまり知られていないセカンド・コンダクターの名前が出るだけで、人種
的な特定がされるのをまずは隠したいというレーヴェの希望に由来する契約条項は、どのみちワルターに
とって嬉しいことではなかったに違いない。名前を変更することは「そら恐ろしいこと」と、彼は両親に
手紙を書いている。「この名前は、さっさと脱ぎ捨てられる着物にとどまらない」しかし、彼はまたこう
続けている。彼が自分の仕事を進めるにあたっては、明らかにこの変更を選択せねばならないことがわか
っていること、また、マーラーたち(マーラーと彼の姉妹ユスティーネとエマ)も、名前を変更するよう強
く要望していることを書いている。
 「ぞっとするではありませんか?」彼はそう嘆いている。
 自伝では、ワルターという名前が、マイスタージンガーに登場する中世の詩人、ワルター・フォン・デ
ア・フォーゲルヴァイデ(この名は、タンホイザーにも登場しているし、マイスタージンガーでは、その
ワルターの文学の師匠とされている)にあやかっていることと、またワルキューレの中に登場するジーク
ムントは、自分自身をフローヴァルトでありたいけれど、彼自身をヴェーヴァルトと名乗らざるを得ない
というようなことにあやかったのだと述べている。こうしたことが本当にあったか虚構であったかわから
ないが、そういうこじつけが、名前の変更をしやすい気分にさせたのだろう。しかし、彼が兄のレオに書
いた手紙には、ワルターは、いくつかの名前をマーラーに提案し、彼はそれをすべて書き留め、レーヴェ
に送ったと聞いていたのだが、実際の契約文面には、ブルーノ・ワルターとのみ記載されて契約が返却さ
れてきたので、ワルターは、マーラーがワルターという名前を一番気に入り、おそらくその名前のみを
レーヴェに提出したのではないかと疑問に思っていたのだった(皮肉にも、ドイツの中では、ワルターは
シュレジンガーより一般的な名前だった)。その経緯について、ワルターの兄、レオ・シュレージンガー
は、弟を責めたように見受けられる。というのは、ワルターは手紙でこう彼に問いかけているからだ。
「今度の地位が樹上で栄えてゆくと思いますか?」おそらく彼は、ケルンでの失望がまだ心に残っていた
と思われ、その手紙に一抹の苦みを含めながら、さらに付け加えている。「一人の人間が非凡であればす
ぐに、世間全体は怒りに震えて彼に敵対します。ただ凡庸のみが容易に出世して、ぼくのほうはいっそう
辛い仕打ちを受けます」 しかし、彼は、すかさずこう付け加えている。「この地位は大きな幸運への第
一歩である」と。新しい名前と新しい希望を胸に、マーラーと過ごしたスタインバッハのアッター湖での
夏休みにおいてリフレッシュしたワルターは、再び活力を充填させ、指揮棒を携えブレスラウに到着した。
彼は、指揮者としてさらなる権威を求めるべく、新天地に臨んだのだった。

(この章 終わり)