ワルター讃 


ここでは、ワルターの魅力について自分の思いを書きます。もちろん、私には一口に語れないほどの思いがあるのですが。なお、ワルターとの出会いについては、別にコーナーを設けましたので、それを読んでもらえれば嬉しいです。

一般に、ワルターというと、優しいとか柔和とか中庸という評が多いと思います。同時代のフルトヴェングラー、トスカニーニ、クナッパーツブッシュ、シューリヒトなどと比べると生ぬるいのではないかという批評があるのも事実ですし、実際の演奏からもそういったイメージが浮かぶ演奏が多々あることも事実です。でも、そういったことを言う人たちは、果たしてどこまでワルターの演奏を聴いたことがあるのだろうかとかねがね疑問に思っていました。一人の演奏家を一部のスタジオ録音だけで判断するのは非常に危険なことだと考えます。
私はワルターが好きですから、その演奏を人にどういわれようと全く気になりません。しかし、ワルターの一部の側面しか聴いたことがない人から、ワルターは生ぬるいというお話しを聞くことには反発を覚えます。
そういう熱狂的なファンの思いから、ワルターの魅力とは何かということで、自分の考えを書いていきます。

ワルターは1962年に亡くなった「過去の人」ですから、遺された録音で楽しむしかありません。本来ならば実演に接してこそ真の評価が固まるというものです。しかし、私たちのほとんどは、ワルターの生演奏を聴いたことがありません。しかも、私はワルターと同じ空気を吸っていません(5ヶ月遅れです)。もしタイムマシンがあれば、第一にワルターの生きた時代の演奏会に顔を出したいと思っています。順を追って時を渡りたいなあと思うことしきりです。夢物語ですね(^_^)。
現在の私にできることといえば、遺されているワルターのライブ録音を聴いて、当時の状態を勘案して、頭の中で再構成して楽しむことしかありません。残念なことにこれらの録音は、録音用アセテート盤等で遺されており、非常に音が崩れているものが多く、鑑賞用として広くみなさんに紹介できないのがほとんどです。あとわずかでしょうが、今後出るワルターの新盤は、現在の音質事情からすると雑音だらけの骨董趣味と捉えられても仕方がないほどお見事な状態が予想され、当然研究用資料、マニアの収集用の域を出ません。もちろん、その曲をはじめて聴く人にいくら自分の趣味だからといって押し付けるのは罪悪であるとも思っています。そういったことを理解いただいた上で、他コーナーの駄文を読んでくださいね。

ワルターの魅力は、まず第一に、時代とともに演奏スタイルが激変したということでしょう。
少なくともヨーロッパ時代とアメリカ時代では大きく変化しています。人によっては、それぞれをさらに細分化する試みがされています。特に、ヨーロッパ時代は、ウィーンフィル以前と以後、アメリカ時代は、1941年〜1950年と1951年から1956年、現役引退後と3つに分けるのが主流になっています。
一般に言われているのは、ナチスに全財産を没収されてヨーロッパを転々と追われ、最終的に合衆国に亡命した段階で、それ以前のスタイルが大きく崩れ、スランプが始まり、その後立ち直り雄大なスケールが加わって、引退後は円熟の境地に達したというものです。
ところで、現代の私たちが失念しやすいことがあります。それは録音時の彼の年齢です。
ワルターが遺し、私たちが聴くことができる演奏は、最初期の彼が50歳頃の演奏から、最晩年にいたるまで38年間の記録です。現在の指揮者たちと比較してみてください。一般に50歳の演奏家というと自己のスタイルを確立し、巨匠としての道を歩み始める年齢です。それを思うとワルターの変化は驚愕に値し、魅力的です。
技術、特に録音技術の進歩がその変化の原因であることも考えられます。ワルターは、録音ということには好意的であったようですし、自分の演奏を聴き直せるというのは演奏家にとってプラスであると考えます。しかし、同時期のフルトヴェングラーやトスカニーニのような一貫したスタイルと比べてもワルターの変化が特筆すべきものでしょう。
私自身は、一般に細かく分けるほどワルターの本質は大きく変わってはいないと密かに思っているのですが、オケの環境や聴衆の反応の変化や時代の変化が色濃く反映していった部分もあり、思いっきり反論するほど確固たる意見を持っているわけではありません。社会人は多忙のため時間がないので、コレクションした同曲異演奏をじっくり聴き比べる余裕がないのは残念です。いずれはじっくりやってみようと考えています。彼の愛したワーグナーのジークフリート牧歌などは、幸いにも各時代にわたって録音が遺されており、研究対象としては大変魅力です。

次に極めてワルターという人が極めて人間的な魅力にあふれていることが挙げられます。
世の中には天才がいます。何をしなくても最高の成果を出す人を天才というとするならば、ワルターは天賦の才能はあったとしても、努力して偉大な人になったという感があります。われわれ凡人にしてみると、それは非常に近しい存在になるのでしょう。近寄りがたい雰囲気ではなく、誰がきても拒まない、そういったイメージがあります。ワルターの著作や手紙を読むだけでもそれがわかりますし、リハーサル風景の録音や映像からも専制教育ではなく、全員で高まってゴールしようという姿勢が伺えます。
子ぼんのうであったワルター最大の悲劇は、ナチス迫害ではなく、同時期に行なった次女グレーテの殺害事件であったと思います。グレーテ・ワルターは、別居中の夫との最後の面談時に夫に殺害され、夫は自殺したわけですが、1939年夏のルツェルン音楽祭の最中に起こったこの事件、呆然自失し指揮棒を持つことさえできなかったワルターに代わり、盟友トスカニーニが指揮台にあがったのです。英雄立志伝ならば、こういう時でも毅然と指揮するのがお話しっぽいし、逸話になりやすいですよね、でもそれができないのがワルターなのです。
また、晩年、録音休憩時にディレクターから、楽団員がワルターを心から尊敬していると聞かされ、はらはらと涙を流したと伝えられたこと、フルトヴェングラーが戦後訪米する企画に対し、ナチスに協力した疑いのために全米の音楽家がこぞって訪米反対運動を展開した折(シカゴ事件)にも、ワルターとメニューヒンだけが反対しなかったというヒューマニズム精神にはただただ感服してしまいます。
その一方で、第三者の評伝では無類の女好きで、各地で問題を起こしたり、エゴイズムの固まりであったという話しも伝えられており、聖人君子のイメージは大きく崩れてしまいます。
こんなに「人」として魅力のある指揮者はいないのではないでしょうか。

また、ライブ録音における演奏の出来不出来が如実に出ているのも魅力です。
スタジオ録音はやり直しがきくため、かなりスタンダードな演奏になっていますが、実演は一発勝負のため、TPOによって成果が違ってきます。オケのレベルや統率度合にもよりますが、その結果、ライブ録音の中には希代の名演奏と天下の迷演奏が混在しており、ワルターの未発掘の録音を聴くことは大きな魅力になっています。
実演録音のマーラーの第9、ホロヴィッツと共演したブラームスのピアノ協奏曲N0.1、ウィーンPoとのモーツァルトの40番、トスカニーニ追悼演奏会のエロイカなどの名演と、NBC響とのチャイコフスキーの5番やロスアンゼルスPoとの新世界などの怪演との差は超絶悶絶なものがあります。整然としたスタジオ録音の演奏と併せて、名演・珍演のコーナーで自分の感想を書いていこうと思っています。

以上、いろいろと蘊蓄を並べましたが、簡単にいうと私はワルターという人間が大好きであり、彼の遺した演奏は全てこよなく愛しています。出来の悪い演奏も人には薦めませんがお気に入りです。この曲は誰の演奏がいいとかという議論はナンセンスであり、聴く人の主観の問題です。ですから、私がここで書いたことも鵜呑みにしないでください。狂信者の戯言と思っていただいて構わないのです。

でも、こうして書いている間、ワルターの各種音楽が頭になっているのは素晴らしいことですね。そういう体験をしたくてワルターのマニアックなページを作ろうと思ったのです。この気持ちわかりますか?

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